正直な感想。

こないだ、筑紫哲也のニュース番組か何かで
(すみません、真剣に見てなかったので非常にあやふやなんですけど)
被爆者のおばあさんとアメリカ人の科学者?が対談するような企画で
彼女に対して、そのアメリカ人が言った言葉が
「リメンバー パールハーバー」 ←ここだけははっきり覚えている


ひとさまが、他の掲示板で書いてた言葉を引用しちゃって、
ゴメンナサイなのですが


>問題はまず、各国の被害者意識と責任回避主義かな、と。
>そういうものは、どう頑張っても拭えない物だから
>同じ土俵に立つ事すらままならない


これがねえ、話をややこしくしてる気がするんですよね。すごーく。


今日のNHKの特集でも、そういう討論をやってたんですが、
「戦争を繰り返さないようにしよう=平和運動」的な話と、
「戦争責任」の話って、多分一緒に論じようとすると、
どうしようもなくなっちゃう気がするのねー。


平和運動」的視点で見ればね、
極論すれば、「原爆落としたのがどこの国だったのか」は、本題じゃない気がするんですよ。
「この兵器が一瞬で、本当に沢山の人を殺し、その後も、何十年の長きに渡り人を苦しめ続けるものである」
1人でも多くの人に、原爆の恐ろしさを伝えたいとおもって活動している人たちが
伝えたいのは、そういうことだと思うから。


「戦争責任」を要素に入れたが最後、
日本、アジア、アメリカの三者が納得する「落しどころ」は、ありえなくなっちゃう気がする。
多分ねえ、こういうコトいうと怒られちゃうだろうだけどね(えらい人に)
もう、終戦後60年もたつんだから、別のフェーズに入って、
「何度も同じ悲劇を繰り返さないために、どうしたらいいか?」っていうアプローチに変えてもいいんじゃないかって思ってしまうのね。
実際、「戦争を知らない世代」の、日本人もドイツ人も、
「いったい、いつまで謝れば、あなたたちは気が済むんですか?」っていう気持ちになってると思うんですよね。


昔のコトがどうでもいいとは言わないけど、
いつまでも昔のコト、ねちねちねちねち言い続けてるばっかりじゃなくて、
次起こさないコトにも、パワー使いませんか?みたいに思っちゃう。


どんなに残虐非道なことも、「自分のメリットになるなら」やるのが人間というもの。
(お金になるとか)
だから、今の経済システムのこの世界から、戦争がなくなることは、多分ありえないと思う。
それでも、一回でも、少なく済んで欲しいなあと思うわけです。


他人事で済むうちは、いいか知らんが、
家を焼かれて、自分が、内臓はみ出せてのたうちまわる目の前で、
自分の大事な人が、ズタズタの死体にされる経験をしたいと思う人は少なかろう。
(グロイけど、たぶん戦場では、そんなこと普通にありそう)
ようは、「自分がそんな目にあっちゃうかもしれない」、そう思う人の割合が
少しでも多いほうが、戦争発生の確率は低かろうと思うのです。
自力で想像できないなら、想像させてやれと。
(体験させてやれ、じゃないですよモチロン)


最近、「ゲームと同じように、人を虐げたり、殺してみたかった」
そんな事件ばっかりですけれど、
逆に、「ゲームで痛めつけられる体験をして、そんな目に遭いたくないと思ったし、人にもしたくないと思った」
って方向に、使えないもんなのかなぁぁぁー。


そういう方向で、世の中の役に立ってくれよオタクパワー。