業というもの

なんかこう、
この年になって、色々見ていると
ひとには「逃れられない業」みたいのが、あるんだなー、と
しみじみ思います。


・・・って、ここまで書いて
仏教用語の「業」の意味をちゃんと調べたほうがいいのかも、
と思って調べたら


「業とは梵語カルマン(karman)の訳で私たちの行為や所作を指す」
って書いてあって
すんごい漠然としてました。
「逃れられない行為」っていう言い方で、
文脈的に通るのだろうか。
ちょっと不安になりつつ続けます。


浮気しては離婚→結婚を繰り返すひと
自分の信仰する宗教には反すると判っていながら不倫するひと
守るべき家族があるんだけれども、次々とトラブルをおこしてしまうひと


そのひとたちだって
自分の行動に問題ありって
たぶん、心のどこかでは、判ってるんだと思うんですよね


判ってるんだけどやっちゃう、または、そうなっちゃう。
そのひとの自制心でどうにかなる域を超えている
たぶんそれが、業ってもんなんだろうなーと。


わたしの業はなんだろう。


正論で、ひとを追い詰める・・かな?(苦笑)


それもあって、最近は、距離をおいて人に接しています。
近しい相手だからこそ、
なんか言いたくなるんだろうし。


でも、ほんというと
もともと
「どう言ったって聞いちゃくれねーし」とか
「わざわざ言うほど、相手に愛ないし」って感じで
クチつぐんでることの方が、多いんですけどね(苦笑)
いくら、周りでなんか言ったって
自分でやってみて、痛い目にあわないと、納得しないものだし。


問題は「なんべん痛い目にあっても判んない」人なんですが(爆)
それこそ言っても聞きゃしねえっていうか
それこそ業っていうか(^_^;)


沈黙こそがわが友ですヨ。
反動で、ここで吐きまくってますが(←だめすぎる)


しかしまあ、
相手を、まるで信用してないわけではないですが
無防備な、むきだしの心で、ひとと接することは
もうないですね。
いきなり後ろから刃物で刺されたとしても
急所を避けられる程度には、距離をおく感じです。
(変なたとえですけど、もちろん精神的な意味でですよ)


そういう生き方をしてると
まー、孤独は深まるばかりですが、
相手を追い詰めて壊すよりは、自分にとって気がラクなので、いいかなって(^-^;)
一回、大失敗してますからねーはははー。(乾笑)